保坂耕司のブラジルプロサッカー選手時代
保坂耕司です。
私のプロフィールをご紹介致します。(以下※画像転載禁止)
生まれも育ちも神奈川県。
幼い頃からサッカーをやり、ブラジルにてプロサッカー選手にもなりました。
小中の時は市選抜程度。高校は複数校からスカウトがありました。
スカウトは静学からもあったのですが、当時好きな女の子と離れるのが嫌で断るという失態。
隣町の高校に尊敬できる監督がいたので、そこに入学。
公立でスポーツ推薦などはなかったものの入試前から部活の練習に参加させられていたので、落とされる事はないだろうと高を括り一切テスト勉強をせず。なんとか合格。
一緒に合格発表に行った選抜の時に一緒だった奴は不合格で気まずい雰囲気。。
しかし、3年間みれると言っていた先生が突然2年の時に他校へ異動。
たしかに12年以上その高校で監督をされていたので、おかしくはないと思いましたが。。
新しく入ってきた顧問はサッカーを知っている風でまったく指導力がなく、練習の意図もわからない。
そのため、精神的にも未熟だった自分は顧問と口論になる事もしばしば。
我慢できずに3年にあがったタイミングで退部届けを出し、ブラジルへ行こうと決意。
退部届けを叩きつけたその足で職員室へいき担任に退学届を出すも親にも相談しておらず独断だったので、
担任が親に連絡をし、親とも話し合った結果、退学ではなく休学。
親の支援はなかったので、アルバイトをいくつも掛け持ちして100万円を握り締めてブラジルへ。
4部リーグだったサンパウロ州イタペチニンガという田舎町の「イタペチニンガFC」のテストを受けて入団。
貧乏クラブだったイタペチニンガは1ヶ月半ほどでスポンサーが離れ給与が払えないとの宣告をチーム全員が受け解散。
貧乏クラブの給与は日本円で3万円もないくらい。
寮生活だったので住む場所と食べるものには困らなかったもののさすがに物価が安かった当時のブラジルでも大して遊ぶ事もできない。
そして2部リーグの入団テストを受け、なんとかサンパウロ州サンベルナルドという町のパレストラに入団。
イタペチニンガとは違い歴史もあり予算もある。サンベルナルドという町は結構大きく街として機能していた。
治安は悪かったので、毎晩銃声が響いていた。
治安は悪いがサッカー選手は守られている。
ブラジル人はみなサッカーが大好きで、サッカーチームは街を代表する顔ともいえる。
イタペチニンガはイタペチニンガを、パレストラはサンベルナルドを代表するチームであり、選手である自分は街を歩いていても声を掛けられる。
チームの選手である象徴であるジャージを着ていれば無敵なのだ!
プロの練習と自分と同じ世代のユースの練習を掛け持ってサッカー漬けの日々。
ユースの練習は参加しなくても良いのだが、同じ世代のレベルも味わいたかった。
日本のJリーグのレベルはブラジルの4部リーグレベルと言われている。
本当にすごい選手がゴロゴロとしており、代表レベルと言っても良いような選手の宝庫だ。
国民の多くがサッカー好きでプロを夢見ているのだから当然なのかもしれない。
王国と言われる所以だと思う。
つづく。